「一命」「切腹」観た方に質問です(ネタバレありです)
先日、「一命」を観まして、その後、「切腹」も観ました。
まだ引きずってます。
①竹光で切腹した侍は実在したのでしょうか?
②もし、求女があの場で
「これは狂言切腹でした。本当に反省しています。私は武士の面目より、生きていたいです。
どれ程あざけられても構いません。何なら、ここで侍の地位を返上してもいいです。
腹を切るのは怖くてとてもできませんが、必要なら、今、この場で、髷を切ってもいいです。
それでも私は生きて帰りたいんです。」
とまで(あくまで仮に)言ったとしたら、井伊家の者達は求女を帰したでしょうか?
③当時、髷を切られた侍は、本当に切腹する程の恥だったのでしょうか?
あの映画では、家老・斎藤勘解由は、津雲半次郎とのやりとりの手前、この屋敷の者は、武士の面目の為には切腹するような精神を持つ者ばかりだと言ってしまった後だったから、撤回できず、三名は切腹となったわけですが。
実際に何らかの理由で髷を失った侍に対する処遇って、どういうものだったのでしょう?
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①いないと思います。
武士の魂を売り払ってしまって生きているということは、生き恥をさらしてでも生に執着しているわけで、武士の面目を重んじる程の人間なら、売り払う前に愛刀で自刃してると思います。
②「一命」では「切腹」では使われていない『狂言切腹』という安っぽいネーミングで片付けてますけど、常々食詰め浪人のタカリ同然の狂言切腹を苦々しく思っていた斎藤勘解由としては、求女が来たことで江戸留守居役賜る家老職としては、赤備えの武門を誇る井伊家の名を高めるチャンスとばかりに、厳しい態度で臨んだわけです。
この辺の勘解由の心理は、「切腹」できちんと描かれていましたね。ラストでも井伊家お世継ぎ大学様が、今回の果断な処置に対して将軍よりお褒めの言葉を賜ったとの覚書の一文を披露して終わっていますから、求女は井伊家の門前を選んだ時点でジョーカーを引いてしまっていたんです。
三代将軍家光の治世下が、徳川三百年の中で外様などの改易、取潰しが一番多かったそうですから、江戸の巷に浪人が溢れかえっていたという設定は、この頃だと推察されます。
また半四郎が沢瀉彦九郎と対戦した時だったか、戦国時代の実戦剣法だと言っていたことからも、関ヶ原か、冬の陣・夏の陣を生き残ってきた強者だと思われるので、彼の言動からも家光時代だろうと考えられます。
③半四郎のような強者が現れていなければ、髷が伸びて元通りに結えるまで自宅待機を許していたでしょうね。
・武士が他家に用談で出向き、帰り際に門前で屋敷を振り返ったのを見咎められて斬り倒されても、遺族は文句を言えなかった。訪ねた家を帰り際に振り返って見るという行為は、その家に対して不実な思惑があったと思われても申し開きが出来ないという理由だそう。
・武士同士が立ち会った場合、暗闇で襲われた場合でも、刀の鯉口を切らずに倒された場合は、武士としてあるまじき油断者として、家は取潰しになった。
これらは実際にあった事件が記録されていたと何かで見聞きした覚えがあるので、江戸期のいつ頃か記憶してませんが、これらの厳しさから類推して、元結を切られるほどの油断した武士が長らえることは不可能な気がします。
関取が髷を結えなくなったら廃業という風習も、元はここから来てるのかも?なんて思ってるんですけどネ。事実はワカリマセン。
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